朝どんより曇っていた天気は午後になって快晴となっていた。上田城には沢山の観光客が櫓の中を見物していた。ここ上田城には天守閣がない。かつて徳川家康は「天守なき城」と小馬鹿にしていたのだが、その「天守なき城」を攻略できなかったのは皮肉なものである。歴史学者の中には天守閣というのは権力を誇示するために作られたもので闘いには無用のものであると力説する人もいるそうだ。無理も無い。「天守なき」この上田城は二度も実戦を経験している。日本中どこをおいても二回も実戦を乗り越えたのは後にも先にもこの上田城だけなのである。

私は二の丸から駅に向かっている長い坂を歩いて下っていた。後ろからは少年達がトライアスリートのユニフォームを来て列をなして自転車でこの坂を軽やかに下っていた。
「あー、腹減ったなあ・・・」
今はもう3時を回っていた。お昼を食べるのをすっかり忘れていたのだ。お城の前のお蕎麦屋さんは2時ごろに早々と店を閉めてしまった。今日打った分をすべてさばいてしまったからである。信州そばを食べたかった私はがっかりした。
坂の中腹に小さな雑居ビルがあり、その一階には古着屋さんと小さなレストランがあった。「お城の坂道」という名前のレストラン。思わず「そのまんまやんけ!」と突っ込みをいれたくなるのだが、背に腹はかえられない。お蕎麦にはありつけなかったのだが、とにかく食べないと力尽きてしまいそうなのである。
中にはいると、店の真ん中におおきなドライフラワーの活け花がある。内装はすべてウッドでこれもまた非常に落ち着きがある。カウンターにはこのお店のママが一人でお店を切り盛りしていた。私は端のテーブルにカメラをおいてどっかと座ると、ママはお冷やを持って私の所へ・・・。
「いらっしゃ・・・・!」
ドーン!ばったーん!ママは何かにつまずいて大きな音をたててひっくり返ってしまった。
「ありゃー・・・、大丈夫ですかあ?」
「・・・ご、ごめんなさい!」
でも、ママはお冷やだけはしっかり死守していた。さすがはプロである。私は速攻で「納豆丼」を注文した。私は納豆丼をほおばりながら、慌てん坊のママとカウンターのお客のおかしな会話をしばし楽しんだ。
「ママ!このごはんうまいよ!」
「・・・でもね、これメニューにないよ」
「ママ、いつも俺にはメニューにないもの作るね」
「なに言ってんのよ!あんたがメニューにないもの注文するんじゃないの」
「だはは!そうだっけ」
「でも、これそんなにいけるだったら新メニューに加えようかしら・・・」
上田市民はウィットにも富んでいると見た。

「納豆丼」を食べ終わると早々とおあいそをしにレジへ行く。
「さっきはどうもごめんなさいね」
「え?・・あ、あはは!」
ママは照れながらレジのキーを操作する。
「根が慌て者ですからねえ・・・」
「いやいや」
「・・・ところで、観光ですか?」
「え?ええ」
「一人旅?」
「ええ」
「いいですねえ、一人旅」
「あはは」
「でも、ここってあんまり見るところないでしょう?」
「え?でも、そんなこと無いですよ。私は古い町が大好きでして・・・」
「じゃあ、柳町とか新町とか・・・」
「行きましたよ、柳町!いいっすね、あそこは」
「じゃあ、別所温泉は?」
「べっしょ温泉・・・ですか?いいえ・・・」
「あそこ行かれたらいいですよ。見どころがけっこうありますから。常楽寺の多宝塔とか安楽寺の八角三重の塔とかいろいろありますよ」
「へえー」
「上田駅から上田交通という小さな鉄道がありますから、それに乗って終点で降りればすぐですよ」
別所温泉か。そういえば明日はとくに予定はなかったし、午前中帰る前に言ってみるのもいいだろう。私はママにお礼を言って店を出た。

次の日、7時ごろに起き、荷物をまとめてホテルを素早くチェックアウトした。そして、一直線に上田駅へ行き、一階にあるドトールでアイスコーヒーとミラノサンドを口の中に押し込み、コインロッカーに機材以外の荷物をすべてほおりこんでホームへ出た。
上田交通のホームはJRの3番線の反対側、専用の改札口を抜ける。上田交通といえば鉄道マニアが泣いて喜ぶ「丸窓列車」で有名である。私はそれをカメラに収めようとホームで待った。しかしやってきたのはオール・ステンレスの列車である。ボディーのサイドには「東急グループ」のマークが入っていた。
わたしはがっかりだった。情緒豊かな丸窓列車が田園地帯を走る風景を思い描いていたのだが、田んぼとステンレスカーなんて、あまりにも似合わなさすぎる・・・。
客はほとんどいないまま、ぎらぎらに輝く2両編成のステンレスカーはだだっ広い田園地帯を走る。とても不思議な気分だ。まるでタイムマシンで昭和初期までさかのぼっている様な心境である。カーブが多いのでうなりをあげている。だからなのか、スピードはのろのろだ。私にとってこのステンレスカーの中の30分間はとても長く感じられた。そして、いよいよ終着駅への最後のカーブを曲がったときである。終着の別所温泉駅へ入る前の引き込み線に薄汚れたおんぼろの車両が止まっていた。
「あれは、丸窓列車・・・」
駅に到着すると、有無も言わせず私は大急ぎでその「丸窓列車」へ足を運んだ。まるで、引き込まれるようにである。
「丸窓列車」は野ざらしになっていた。車体はさび、ツタが車両の一部を覆う。現役を引退してしまっていたこの列車は「丸窓列車資料館」として余生を送っていた。レトロな列車のすぐそばに、それとは対称的でおしゃれなログハウスの喫茶店「丸窓喫茶」がある。そこが資料館の管理をしている。そこのマスターに百円を支払うと中を見ることができるのである。私は中に入ってカウンターのマスターに百円を支払い、「丸窓列車」のブルーとホワイトの半自動のドアを力任せに開け、中に入った。
中にはがらくたみたいな資料、当時の看板や道具などがほこりをかぶってただおかれているだけである。小さなメモ書きの札で解説文が書いてある。しかし、それも色褪せていた。そう、まるで中は屍であった。その中だけ時がとまって吹き溜まっていた。
壁の一番上にはこの「丸窓列車」の現役のころの写真が展示されていた。田園地帯のど真ん中を走る2両編成の「丸窓列車」が色褪せたカラー写真の中で元気にのんびりと走っていた。千曲川を渡り、遠足の子供たちを乗せて走る。でも、その風景はこの写真の中だけに閉じ込められている。今はもう見ることはできない。そう、「流れ去る景色は二度と思い描くことはできない」のである。

「丸窓列車」を見てから常楽寺の多宝塔や安楽寺の八角三重の塔を見たが、身に入らなかった。私の心はすっかりうわの空である。何かが気になりだしていた。でも、それが何だか解らないのである。まるで、くしゃみが出そうで出ない心境だ。北向観音の前の門前町でやっとありつけた信州そばも味わうことなく、大急ぎでたいらげてしまって早足で別所温泉駅まで戻ってしまった。
駅のホームから私はそのぼろぼろの「丸窓列車」をじっと眺めていた。遠くには太郎山。空はどんよりと曇っていた。遠くから踏切の鳴る音がして、今現役のステンレスカーが「丸窓列車」の横をすり抜け、ホームに入ってきた。
「俺ってアホや・・・」
なんでこんな事今まで気づかなかったのだろう。このステンレスカーが「丸窓列車」の役目を引き継いだように、私も父の意志を引き継げばいい。「独立しろ!」と言ってくれた父のことを子供たちに語ってやればよい。いや、語れるようにならなくてはならない。その為には残された課題があまりにも多い。京都へ帰ろう!家へ帰らなくては・・・!私は到着したばかりのステンレスカーに乗り込んだ。

車内は駅に着く度に乗客が増えていった。私はCDプレーヤーを取り出し、平岩英子の「卒業」を聞いていた。流れ去る車窓の風景を見ながら私は思った。
「流れ去る景色を二度と思い描くことはできないのであれば、そう、新しい風景を見ればいいんだ・・・」
まだまだ本当の卒業には程遠い。でも、とりあえずは見切り発車の「卒業」だった。

車窓にはりんご園の木々が風に揺れていた。ぶら下がる林檎はまだ未熟で青かった。そして、そこから香るにおいは秋が近いことを知らせていた・・・。

                       「おやじのルーツ」おわり