
私は馬場町から父の生家を訪ねる事を再開した。まず、近くのコンビニでミネラルウォーターを購入し、それをカメラバッグに忍ばせた。途中で水分補給をするためである。しばらく木町を西へ進んでいたが、途中でとても雰囲気がよい街並を見つけた。ここは柳町といって、柳の並木が並んでいる古の街である。造り酒屋をメインに昔の宿場町のようなとても落ち着いた通りである。街道を飾っている柳をよくみると酒樽の中に柳が植えられている。
「なるほど、酒樽が植木鉢ね・・・」
その酒樽の植木鉢の根元には短歌をしたためた札が差し込んであってとても風情がある。私がこの上田で見た中で今までで一番美しい街であった。私はこの柳町を通って北国街道に出ることにした。勿論、カメラを持ちながらである。私はこのような古くて美しい街の中を歩いている時が一番落ち着く。都会のど真ん中で時間に追われて生活している為に、正反対の環境に憧れるのだろう。とにかく、私にとって一番心が和むひとときである。
そんな美しい柳町の端に差しかかったとき、一組の老夫婦にばったり出会った。二人は首に一眼レフを下げていて、私と同じように町中を撮影していた。私のおおげさなカメラバッグを見るとポロシャツの紳士はにこっとして
「どうです。面白い写真は撮れました?」
と言った。私もにこっとして
「ええ、お蔭様で・・・」
と答えた。するとポロシャツの紳士は
「面白い場所あります?」
と言うので
「ええ、この柳町はいいですよ」
と答えた。老夫婦はにこっとして柳町の方向へ歩いていった。あの紳士は私の親父ぐらいの年齢だろうか・・・。北国街道に入った私はこのまま目的地の常盤城まで一直線に歩くことになる。とは言っても、途中で写真を撮るために道草を食いながらである。柳町ほどではないがこの北国街道にも断片的に城下町の風情を残している。蔵や武家屋敷、神社や寺、造り酒屋など。私はシャッターを切りまくった。がむしゃらにである。
車の沢山通る通りとぶつかった。車の途切れるのを待っていたのだが、一台の車が横断歩道の前で止まってくれて「渡りなさい」と手で合図してくれる。私は手をあげて「ありがとう」の合図をして急いで渡った。ドライバーのこの何げない親切な行為は上田のあちこちで見かける。私は観光都市京都の郊外に住んでいるが、京都でもこんな光景を見たことなかったし、してもらったことも無かったのだ。上田の人達はとても心に余裕のある人達なのだろう。
この通りを境に北国街道沿いの街は「紺屋町」から「西脇」に名前を変えた。ちょうどこのあたりが上田城のちょうど北側になるのである。相変わらずシャッターを切り続けた私であったが、急にお腹の調子悪くなり出した。どうやら、ミネラルウォーターを飲みすぎたみたいである。この近所にトイレを借りられる所を探したが見あたらなかった。お腹が緩くなった私は少し慌てた。
「うう、こまったなあ・・・」
しばらおろおろしていたのだが、この場所が上田城のすぐ北側であることを思いだし、
「そうだ、お城の公園なら公衆トイレがあるはずだ!」
私は、すぐに進路を南に取り、公衆トイレがあると思われる上田城跡公園へと向かった。
上田城跡公園はすぐ近くにあった。公園の北側は陸上競技場になっていた。
ウレタンではなく、土のトラックの陸上競技場。そこには誰もいなかった。そばの小屋からジャージ姿の女子中学生が二人出てきた。
「すんませーん・・・」
私はその初々しい女子中学生たちに訊ねた。
「この辺にトイレありませんか?」
私をしばらくきょとんと見ていたがにっこりして
「トイレ?・・・ここでえ〜っす」
すぐそばにあるコンクリート小屋の入口を指さしてくれた。
「なははは!あ、ここね!どうも、ありがとう」
私は慌ててそこに入って用をすませた。幸い紙があったので難なく事をすますことができた。
トイレから出てから私はこの陸上競技場を見渡した。
「あはは!懐かしいなあ・・・」
さっきの女子中学生たちはトラックをゆっくりアップしている。私はちょうどゴールの前にあるぼろぼろの計測台の上に登ってそこに座り込んだ。
「そういえば、親父、駅伝の時見にきてくれたっけ」
私は高校時代、陸上選手だった。軟弱で運動神経が鈍かった私であったが、何故か長距離走だけは得意だった。いじめられっ子だった私であったが、そういう自分を変えたいという気持ちもあって、高校入学と同時に自ら陸上部へ入部した。もちろん中学時代から走り続けた連中にはとうていかなわなかった。でも、それなりにトレーニングの成果が現われ出し、駅伝のレギュラーメンバーとして走ることが出来た。当時、同じ長距離を走っていた先輩が、夏に行われた京都陸連主催の合同合宿で私の走りを見てくれたのがきっかけだった。兵庫県の鉢伏高原でクロスカントリーの練習をしていたときに、私は何故か登りが早かった。それを見た先輩は私を登りの多い区間を走らせようと決めたそうだ。それから、陸上部の仲間から「登りの藤澤」と呼ばれるようになったのを今でも覚えている。
軟弱な私が陸上競技で頭角を表し始めたのがうれしかったのか、父と母は駅伝の試合になると必ず車で応援に来てくれた。長岡京市から約3時間もかかる丹波にも自家用車で駆けつけてくれたのである。
「あの頃の俺って、どこへ行ってしまったのだろう・・・」
私は競技場のフィールドでダッシュの練習をしているさっきの女子中学生達を見ながら思った。あのとき、まがいなりにも現状打破しようと陸上部に自ら入った自分。あの時の勇気はどこへ行ってしまったのだろう。今の私はただどうしようもない現状に怯えているだけだ。正直自分が情けなかった。
隣接する野球場でバットとボールがぶつかる音とかけ声が聞こえてくる。夏の甲子園へ向けて練習していたが惜しくも予選で負けた地元高校の野球部の連中であろう。夢敗れたが、今度は春の選抜目指して練習しているのだ。さきほど、練習していた競技場で練習をしていた女子中学生たちは夏休み中の調整練習を終え、さっさとダウンして競技場を後にしていた。
私は立ち上がって、後ろを見た。そこには太郎山がそびえていた。私があの頃描いていた夢は、勇気は・・・。あの頃はもう戻ってこないのである。そう、流れ去る景色は、もう描くことはできない・・・。
(つづく)
