真田幸村と言えば池波正太郎の小説「真田太平記」。真田幸村率いる猿飛佐助、雲隠才蔵などの真田十勇士の大活躍の大武勇伝である。この真田十勇士は架空のものであり、大正時代の講談本の作家が創作したものと言われている。しかし、この真田幸村という人物は実在した。父昌幸の二度に渡る徳川との決戦、そして、息子の幸村の大坂冬の陣と夏の陣での活躍はあまりにも有名な話しである。
真田家の発祥はこの上田市よりも北の現在の小県群真田町がそうだと言われている。信濃国に進出してきた武田信玄に仕えてから、めきめきと頭角を表し始め、真田の地から上野国(群馬県)の吾妻群から沼田(利根郡)にかけて勢力を拡大してきた。
天正10年(1582年)に武田・織田の巨大大名が相次いで滅亡。戦国の世はさらに混乱の一途をたどる。その中で真田幸村の父昌幸は、周辺の上杉・北条・徳川という強豪の間に挟まれながらも天正11年に上田城を築城。小県一帯を支配下におく。
武田氏が滅んでから昌幸は当初徳川家に従っていたのだが、あわよくば天下を取らんと野心を持っていた。それが爆発したのが沼田問題だった。徳川家康は天正12年に小牧長久手で秀吉軍と戦った。その時力をかりたのが北条家であった。北条家はその恩義を盾にして、真田家の沼田城を譲渡するように求めた。徳川はそれを昌幸に伝えるが、昌幸はそれをきっぱりと断ってしまう。面目がたたなくなった徳川は翌年天正13年閏八月二日、上田城に進軍。当代唯一の兵法家であった家康であったが、真田昌幸の方が一枚も二枚も上手であった。上田の地形をうまく利用し、反撃。七千の軍隊は壊滅状態、二千の兵士が死におちいるのである。これは第一次上田合戦と言われている。

「この闘いで真田家は徳川家に反感をもつようになったんだけど、まだ、中途半端な状態だったの」
マスターは切々と語る。
「中途半端というと・・・」
「昌幸には二人の息子がいて、一人は父と共に戦った次男の幸村。もうひとり、長男に信之がいて、信之の妻は家康の重臣本多忠勝の娘。幸村は石田三成の親友大谷吉継の娘をめとっていたし、また昌幸も石田家と血縁関係があったのね」
「つまり、家族が徳川家と石田家との血縁関係でごちゃごちゃになってしまって、どっちについたらいいのか解らない状態なのですね」
「そういう事!」
タオルのおっちゃんは毅然と言った。
「でも、あの有名な関ケ原の合戦の前に真田家は会議を開いて、ある決断をするわけ」
「まさか・・・」
「そう、父昌幸と幸村は石田側の西軍。信之は徳川の東軍につくことにしたんだ」
「・・・どうしてですか?」
「血を守るためなんだ」
「血・・・」
「そう、真田家の血をね。二つに分かれてもどっちかが勝つ。そうすれば真田家の血は続くことになる。親子三人は話し合いでそう決めた。どっちが消えても怨みっこなしということでね」
政略結婚が多かった戦国時代である。真田家も昨日の味方が今日の敵になるとは思ってもいなかったのだろう。戦国の世は家族までも引き裂く不幸をもたらしていたのである。真田親子は真田家の血を後世に残すためにあえて敵味方に別れる非情な決断をするのだ。
そして、慶長5年(1600年)。あの有名な天下分け目の闘い「関ケ原の合戦」が開始される。上田城に残った昌幸と幸村の真田軍は徳川秀忠と戦うことになる。徳川約4万の兵に対して、真田側わずか二千五百であった。そのわずかな軍勢で徳川秀忠の軍を食い止め、大損害を与え、関ケ原の合戦に間に合わせないようにしたのである。これが第二次上田合戦である。
ご存じの通り、この天下分け目の闘いは徳川の東軍が勝利し、西軍に味方した昌幸と幸村の親子は高野山の九度山へ追放になる。本来なら殺されるはずの二人であったが、徳川についた信之の助命嘆願によって、命は免れたのだ。そして、慶長16年(1611年)父昌幸は高野山の地で病没する。享年65歳。私の父と同じ歳に没したのは偶然だろうか・・・。
「その後、幸村は豊臣家に呼びかけられ、大坂の役の二つの闘いで大活躍するけど、大坂夏の陣で命を落とすことになったの・・・」
私はこの話を聞いて真田親子に敬意を払うとともに、私自身を恥じた。幸村・信之兄弟は敵味方に別れたが、気持ちは同じだったのだ。真田家を守る為、父を守る為、非情な人生を一生懸命生きたのだ。では、私はどうだ。父を守れなかった。父を病魔から救うことができなかったのだ。もっと早く糖尿病のことを知っていれば、父の食事を改善させ、命を救うことができたのに・・・。
「この真田家の生き方、もっと今の政治家にも見習ってほしいよね。今の政治家は頼りないよね。あっちへふらふら、こっちへふらふら。勢力の強い方へなびくものね」
マスターは毅然というと、他の常連客も賛同した。
「えらいよ、彼らは。これだと信じた道を周りに振り回されずにがんばったものね!」
不等な権力を嫌う民衆は真田家の毅然とした生き方に心を打たれた。この上田の人達はそういう彼らを尊敬し、愛しているのだ。
「・・・そうですか。幸村はみなさんのヒーローなんですね。どうりで町中に「六文銭」のマークがあちこちにあるのかが良く解りました」
「この「六文銭」というのは、三途の川の通行料と言われる六文銭から取ったとも言われているんだ。つまり、「死を覚悟しながらも使命を果たす」と意味があるんだよね」
そう、この「六文銭」は上田市民のアイデンティティなのだ。曲がったことがきらいな正義感あふれる人達なのだ。

「うわー、もう11時だ!色々と為になるお話ありがとうございました」
「がんばんなよ!「おやじのルーツ」見つけなよ!」
「ははは!ありがとうございます。やりますよ!絶対!」
私はこの気さくな仲間たちのエールに感謝しながらこの喫茶店を出た。
上田市民の誇りである真田幸村。そして真田家の親子の絆。私にとってとても衝撃的な物語であった。私はこの武勇伝で数々の事を学んだような気がする。この物語が私の柵からの脱却のヒントになるのでは・・・。私は思った。
しかし、私の父はもういない。幸村・信之兄弟のように父を守ることはもうできないのである。では、どうすればそれを償うことができるのか。まだ、私には分からなかった。

空はいくぶん雲が多いものの、まだまぶしい夏のままの太陽が輝いていた・・・。

                              (つづく)



■注釈
【真田幸村】
真田昌幸の次男。幸村という名前が一般化しているが本名は「信繁」という。大坂の役での活躍は有名であるが、大坂夏の陣で現在の大阪市天王寺区の安居神社で西尾久作という鉄砲頭に頚を取られる。

【真田太平記】
池波正太郎の大河歴史小説。新潮文庫。全十二巻。

【真田十勇士】
真田幸村の郎等。猿飛佐助、雲隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、穴山小助、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎の十名。もちろん、彼らは架空の人物であり、大正時代の講談本や映画に登場する勇士なのである。