ゲージツを斬る
いばるな!自称ゲージツ家
文:顔須太郎
 猫も杓子もゲージツ家の時代だ。医者や弁護士には誰でもなれる訳ではないが、芸術家には誰でもなれる。明日から「私は芸術家だ」と自称すれば良いだけだ。カリスマ美容師だって免許がないと事件になる御時世、芸術家という呼称ほど好い加減にして響きの良い言葉も少ないだろう。少なくとも「宗教家」とか「占い師」とかを自称するより当たり障りがない。

 作品がなくても「私は芸術家だ」と言い張って罪にはならない。「それでは作品を見せてくれ」と言われたらどうする?「目に見える作品を造る事だけが芸術家の使命ではないのです。」とでも言えば良い。「平凡な作品ですね」と批評されたらどうする?「私は自分の為に創作を続けているので人にどう評価されても気にならない」とでも言えば良い。この、どうとでも言い訳の効くところはカルト宗教の論理にも似ている。

  このように、「芸術家」とは、ゴマカシの世界に生きている人々でもある。ゴマカシの世界にはうさん臭い人々が集まりやすい。もちろん、芸術家にも人格者、常識人もいるのだが、今回は「自称芸術家」のお話を少ししてみたい。特に芸術家をしているあなた自身に読んでいただけたらと思う。

 自称芸術家の多くは、自分が芸術をやっているという事自体に自己陶酔している人が多い。同じような仲間と連帯意識を持つことによって陶酔度はさらに加速し、金と意欲が続く限り創作活動を止めようとしない。売れようと売れまいと、認められようと酷評されようと、多くの自称芸術家は自分の信念(わがまま)の元に行動する。それはそれで良い。勝手にすれば良い。しかし、自称芸術家の言動は、往々にして一般社会に対し明らかな迷惑をかける事がある。「他を排撃する」「約束を守らない」「お金を払わない」「言いがかりをつける」等の行為に出る身勝手な自称芸術家は実に多い。おおよそ人の立場や社会生活の常識というものを考えていない。この点では、カルト宗教の信者にも似ている。

 私自身は芸術家ではないが、やはり、極めて自己中心的な人間であり、「和を以って尊し」とはしない。それ故、自己中心的な自称芸術家と私が何かの論議をしたり約束をしたりする場合、なにかしらの問題が起こりやすい。だが、過去を振り返ると、多くのケースにおいては私の方に理があった。どう考えても私の方が絶対に正しいケースがほとんどだった。

 ただ、救われる事は、そのような社会生活もロクに出来ない作家に限って素晴らしい作品を造る人が多いと言う事実だろう。作品の良さは他の悪さを全て帳消しにする。私は、そのような作家に対しほとんど全てを許容する。そして、なんとかバランスを保ってコミュニケーションをし続ける。長い時間が経ってお互いが解ってくると、強い信頼関係が出てくるケースもある。そんな時は、「こういう才能ある変人と私のような凡人が共生してこそ世の中は楽しい」とか本気で思い込んだりもする。実際、芸術家がのびのびと活動出来る世の中であってほしいとは思う。

 救われないのは、才能がなく、なおかつ身勝手な自称芸術家であろう。出来るだけ早く自分の才能に見切りをつけ、社会のゴミになる前に他の仕事を探すべきだ。それでも芸術を諦めきれないのならば、居心地のいい会派やグループの中で細々と自分の立場を守っていくべきだろう。処世術に長けているのならば、才能がなくても大家と呼ばれるチャンスはあるかもしれない。

 実際、才能の無い作家で名声と地位を得た例も多い。特に、審美眼の無いパトロンがついてくれた場合は、ありとあらゆる美辞麗句でその人の作品は持ち上げられる。そうすると、ブランド商品のように作品は流通しはじめる。芸術家とパトロンは何らかの後ろめたさを感じながらも売名を続け、鑑賞者を騙し続ける事ができる。

  しかし、見る側は猿ばかりではない。本気で見ている人もいるのだ。本気な人とは、例えば、食うのも我慢して好きな作品を買い求めようとするコレクターの事である。それらの人の中には、威張っている芸術家に限って才能が無く、そして、人に教えたがるものだと感じている人も多い。


1999.11.20 (C)Taro Kaosu
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