カピタン脇田の単身赴任日記

6 川原慶賀展への招待

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新年、おめでとうございます。
今年は、日本とオランダの接触が始まって400年という節目の年にあたり、日蘭交流400周年事業が各地で行われます。特に関係が深い長崎でも、長崎阿蘭陀年として、この1月から2001年3月までの15ヶ月間、平戸市から長崎市にかけて各種イベントが繰り広げられます。皆様、ぜひおいで下さい。

文、写真:脇田安大(わきたやすひろ)

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さて、イベントの中でも、私が特に注目するのは、シーボルトのお抱え絵師として活躍した「川原慶賀」に関する展示会です。この1月4日から、シーボルト記念館で「川原慶賀が見た長崎の風俗」展が始まりました(〜3月14日)。長崎の正月風景や、ひな祭り、凧揚げ、精霊流し、餅つきなど人々の暮らしを、写真のような精密さで描いた絵は、江戸末期の暮しを伝える貴重な手掛かりであり、美術品でもあります。
さらに、3月18日からは川原慶賀が描いた植物画を中心に「シーボルト旧蔵日本植物資料展」が予定されています(〜4月22日)。これは、
@川原慶賀が描いた植物画をもとに作成された「日本植物誌」(シーボルト著)の原画(シーボルトの子孫であるブランデンシュタイン家所蔵)
A東京都立大学に保存されているシーボルトが収集した標本(押し葉)
B旧蔵日本植物図譜(丸善)から作成したパネル、から構成されます。
約30点の原画の中には、私の希望した植物も入れていただく予定です。

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■私と慶賀との出逢い
私は、芸術とは無縁の無粋者で、学生時代から絵を鑑賞しようなどと考えたこともない。しかし、不惑の歳を迎え、老後の趣味にと、植物の細密画を描くことにした。すると面白いもので、日本の古い植物画が目に付き始め、シーボルトの「日本植物誌」などの細密画は自然な柔らかさで、硬い感じ西洋のボタニカルアートより好ましく感じるようになった。
平成11年3月、長崎支店への転勤が決まったとき、偉大な博物学者シーボルトの地を踏むことができると喜ぶとともに、それまで名さえ知らなかった植物画家のことも気になっていった。ある時、県立美術博物館の副館長の話を聞き、川原慶賀がシーボルト絵師と称されていることを知る。以下は、私なりに調べた「川原慶賀」像である。

■シーボルトと川原慶賀

川原慶賀は1786年(天明6年)に、画家・川原香山の子供として生まれ、名前は登与助、雅号が慶賀。日本画家であったが、シーボルトの来日が彼の運命を変える。
当時、長崎の出島には、医官としてケンペルやツンベルクなどが駐在しており、いずれも日本研究で名高い。しかし、ドイツ人、フランツ・フォン・シーボルトは、1823年からわずか6年の滞在であったが、これら先輩をしのぐ日本研究を行っている。医者の家系に育ったシーボルトは、外科医として一流の腕前で日本人を感嘆させ、私塾である「鳴滝塾」を開くと、高野長英など全国から学者が集り、日本の医学の基礎を築いたことは周知の事実である。image
その傍らで、シーボルトは植物などを採集し、それを描く画家として川原慶賀と出会う。慶賀は、当初日本画的であったが、東インド会社から派遣されたフランス人画家フィルネーベに学び、近代植物学の技法にのっとった植物画を描くようになり、シーボルトの片腕として珍重されていく。そして、1826年に訪れたカピタン(オランダ商館長)の江戸参府にシーボルトが同行すると、その絵師として随行する。この参府は、2月15日に長崎を出発して7月7日に帰る5ヶ月もの長旅で、シーボルトの日本探訪のクライマックスになる。シーボルトは、後のシーボルト事件の伏線にもなるのだが、多くの学者と接触してあらゆる物や知識を集め、慶賀は膨大な動植物を整理・実写し、存分に本領を発揮する。
やがて、慶賀は動植物に止まらず、習得した技法で、出島の異国人の生活や長崎市内の風俗習慣、さらに鳥瞰地図など、幅広い分野でリアルな美しい絵を残している。人物画も多く、着流し姿であっても、その下の骨格・体躯を見通せるくらいの正確な図を描けるまでに、人体などに対する知識をつけていたとされる。
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■町人絵師の思い
しかし、残された多くの作品に比べ、その人物像はほとんど知られていない。生年でさえ、たった1枚の人物画に記された作年とその時の年齢によって判明したくらいである。本国に帰る直前に、台風で収集物を積んだ船が破損し、国外持ち出し禁止の品が発見されたシーボルト事件で、多くの門下生が処分され、慶賀も長崎払いの処分を受ける。その後は長崎の風俗や裕福な家の人物画を描き、素晴らしい出来ではあるが、革新的な往時の輝きを失っている。そして、没年はその記録さえない。80歳くらいまで生きたのではないかと推測されているが、シーボルト事件の30年後に再来日したシーボルトとは再会しているのだろうか。
考えるに、慶賀が知られていないのは、画家というよりも、絵の職人「絵師」であったことと関係があるのではなかろうか。自らの主張を絵にたくして、美術として高めていった一群の人々と違い、依頼主の注文を受けて写実マシンとしての腕を高めたが、それを越えて芸術にまで至ることはできなかったと思われる。シーボルト離日後、長崎の風俗や人物を精密に描写し、それなりに評価を得ているが、晩年には同じ長崎で日本初の写真屋を開いた上野彦馬によって、写実としての絵は力を失ってしまうことになる。
しかし、それにしても、自己主張の無い絵を見ていると、見る者の心を映し出す鏡のように、かえって想像を掻き立てるものがある。現在の20世紀末、大量生産・大量消費文明の混迷のなかで苦悩する私達にとって、慶賀が感じた新しい時代や価値観とはどんなものだったのかと、つい考え込んでしまう。
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2000.1.23 (C) Yasuhiro Wakita
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